2009年10月1日木曜日

スポンサーとパートナー 前編

 今回のコラムは、珍しく独白。そろそろ書くネタに困ってきたこともあり、たまには自分のやってきたことを振返って見るのもアリかと思いたった。したがって、本稿の主語は「私」。あくまで現時点での個人的見解であることをご理解のうえ、よろしければお付き合いください。

【 主催者は見た、見られていた 】

 「スーツ姿の人が会場の後ろで立ってじっと見ていて、怖かった」自社主催のとあるアートワークショップ。来場者アンケートに、実際に書いてあった一言だ。「スーツ姿の人」とは、駆け出しの頃の私。もう十五年近く前のことだろうか。主催者たるもの本番には足を運んで当然。仕事なんだからやはりスーツ姿で行かねばならぬ。座席はお客さまのもの、お迎えする側は座るべからず、などなど。すべて、主催者としての心がまえを自分なりに実践したつもり。もちろん、あまり馴染みがなかった芸術分野、何が起こっているかもわからぬままに、後で上司に報告するために食い入るように舞台を見つめていたのだろう。また、司会者による「このイベントは、○○株式会社により・・・」という主催者紹介が無いことにも困惑していた。そんなこんなで出来上がったシカメ面。せめて顔つきだけでも柔和であればよかったのだろうが、それは生まれつきと開き直る。それでも、このアンケート結果には少なからず動揺したことを覚えている。次回からはスーツはやめよう。そうは言っても、ジーンズファッションが私の普段着。とりあえず、ラフとオフィシャルの中間くらいの落としどころ、かつ、“無難なゴルフファッション”と一線を画すイケてるスタイルをめざし、ファッションモールを彷徨ったものだ。

【 Who’s BAD?! 】

 主催者と言えど、この頃の私の関わり方は、「スポンサー的関係」であったように思う。つまり、資金を出す企業の担当者として、本番を視察しているに過ぎない状態であった。準備段階には何も関わっておらず、企画書の内容が実際にはどのようなプロセスで実現されたのかは、本番を見て理解するしかなかった。また、人的交流も十分ではなかった。もちろん、「面識はある」程度の関与者は何人か居たが、現場の多くのスタッフからしてみれば、「あの人誰?」というのが正直なところだろう。そんな人物が眉間にしわを寄せながら、誰と交流するわけでもなく突っ立っていれば、アンケートに書かれたような評価は当然。しかも、一度動きはじめてしまえば、幸か不幸か主催者が誰であるかなど気にしなくても現場は運営していける。スタッフが、主催者紹介にまで気が回らないのも無理の無いことだった。
問題なのはスーツ姿そのものではなく、主催者としての関わり方が不十分だったのだと気がついた。この頃から「主催者的って何だ?!」について、ぐるぐると考えるようになった。その後、「アートにおけるパートナーシップ」という考え方が社会的に言われ始め、耳障りの良い言葉に、企業がこぞって飛びついた。私の興味もそちらへ移っていったが、一方で従来のスポンサーとパートナーとの違いについて、これまたぐるぐると考えるようになった。「パートナーといえども、資金は企業が出している。そのことによる優位性が存在するのに、対等な関係など成立するのか?」と。

【 金の切れ目≠縁の切れ目 】

 企業とNPOとの関係性において、やはり重要な要素となるのが、資金のやりとりだ。広告業界を例にとって見てみれば、資金の拠出者であるスポンサーは、全ての関与者の中で上位の立場であると認識されることが多い。語弊のある言い方だが、「金を出してるものが強い」。制作過程で意見が食い違った場合、よほどのコトがない限りはスポンサーの利益が優先される。販売促進であれ企業イメージの訴求であれ、資金を出す以上は出すなりの意図が企業にはある。その達成が最も優先されるべきことなのは、一般的な感覚として理解が得られるものだろう。言い換えれば「仕事を出している」のは、スポンサー側だということ。もちろん、これを人的な上下関係と拡大解釈した「スポンサーの横暴」も散見されるが、それについてはここでは割愛することにする。

 一方でパートナーとは、対等に結びき共に使命を果たす関係性であり、上下関係を規定されるべきものではない。前段と表現を合わせれば、「共に仕事をしている」仲間だということだ。しかし、「支援」「協賛」の名の下に、企業からNPOに対する資金の流れが存在しているだけに、実際には上下関係が成立する余地が残っている。これに起因して、企業側がNPOを「人件費の安い製作会社」だと誤認し、パートナーの名のもとに企画を丸投げしておきながら優位なスポンサー的扱いを望むのだとしたら、それはとんでもない間違いだ。逆に、NPOにとって企業は、都合の良い時に資金援助をしてくれる「お財布」であってもならない。両者の関係を、「資金」というモノサシで規定することで、関係性は歪む。社会的に聞こえの良い言葉の裏側で、両者が日々感じる矛盾は、確実に存在している。

【 社会に課題がある限り 】

 両者の関係を考えるとき、企業の社会貢献とは何かという議論に立ち戻る。社会貢献とは、社会課題の解決に対しての自発的な取り組みであり、「支援を求められたから応える」という受身の姿勢を前提とするものではないはずだ。一方でNPOとは、市民の社会的問題意識に基づいて、自発的に行動を起こすムーブメント。それぞれに持てる資源(資金、スキル、ノウハウなど)が違い、かつ、それぞれの資源だけでは課題解決に十分な原資とならない。このとき双方が補いあって、同じ社会課題の解決のために協働してアクションを起こすこと、これこそがパートナーシップだと理解している。企業は、決してNPOの制作費を支援しているのではない。逆に、ノウハウや専門性を持たない企業にかわり、社会的投資の実務、資金の執行を代行しているのがNPOだと理解すべきだ。両者の関係性は、資金の流れによって決定されるのではなく、社会的意識の共有によってのみ決定されるべきもの。この考え方を完璧に双方が持つことにより、初めて上下関係を脱却した真の協働への道が開ける。それが出来てさえいれば、「ビジネスマナーがわかってない」「きっちりしていない」など、企業側が口にするNPOへの数々の不満は、本来は些細なことであるはずだ。“ソバカスなんて、気にしないわっ♪”と笑い飛ばすか、そうでないなら「理解すべきマナー」として情報共有すれば良いだけなのだから。

 こうして言い切ってみればごくあたり前、おそらくメセナの教科書にも書いてあるであろう基本中の基本だ。だが、研究者ではなく企業人である当時の私が、このことを実体験として感じ、自分の言葉として語れるようになるには、少なからず時間を要した。さんざん繰り返した自問は、問いそのものが間違い、「スポンサー的驕り」だったのだと。長い思考スパイラルからは脱却した私は、次はいよいよ、「主催者」として現場に入ることにした。主催者たるもの、一体何を為すべきなのか。そこでの試行錯誤については、次稿でご紹介することにする。

(次号は11月1日更新予定です)