2009年7月20日月曜日

違いを楽しむ人のパートナーシップ

【 三年目の◎◎◎ぐらい、大目にみてよ 】

 これは、実体験に基づいたフィクションである。主人公は、企業の社会貢献担当者(兼任)。現任部署で3年目。はじめてメセナを実施してから、年に数回、アートイベントとのお付き合いを続けている。業界団体の会合にも顔を出した。顔見知りも増えてきた。「ウチなんて、まだまだですよぉ」と謙遜しながらも、なんとなくメセナのことがわかってきた。それだけに、企業とアートの現場の微妙なズレが、最近気になりだしている。何かが決定的に悪いわけでもないが、なんだかギクシャクする。そんな感じだ。

【 待ちぼうけ、主せっせと別現場 】

 「報告書、まだですかあ?」パートナーNPOへの留守番電話。残念ながら、この催促が毎度のお約束になっている。報告の重要性は「愛せよ!アートマネージャー」でも触れた。相手も事情は理解しているようで、「申し訳ない!出来るだけ早くやります。。。。」と平謝りをしてくれるのだが、一向にカイゼンできそうな気配がない。自社が支援したイベントならば、企業担当者も顔を出して、自分の目で見て判断するのが筋。一方で悲しい兼任担当者、事業の重大案件と重なれば、泣く泣くそちらを優先すべき宿命を背負っている。「他の仕事が重なったので、協賛辞めます」とは行かないので、事情を知るには、報告書に頼るしかないのが現状だ。そうこうしているウチに、次の部内会議の日がやってきた。前夜、やっと電話でつかまえたNPO代表者から、内容をヒアリングして自分で書類にした担当者。すべて伝聞の内容だけに臨場感がない。「予算を使ってるんだから、結果報告ぐらいはしてもらうべきだろう。」と、ごもっともな上司の指導。肩身の狭い会議となった。「報告無し」は、組織ではご法度。情報は担当者だけのものではなく、複数いる社内の関与者すべてで共有し、必要があれば関連部署と「調整」すべきものだからだ。
 一方で、アートの現場も多忙を極める。次から次へと現場が重なる状況で、目前の対応を優先し、「終わったこと」が後回しになるのは、やむを得ないだろう。しかし、いかに多忙でも、A4一枚の書類ぐらい、テンプレートさえ決めておけば、“朝飯前”ならぬ“打ち上げ前”の仕事ではないか。そうならないのは、そもそも「報告書」の定義が、双方で違っているからだろう。報告書にも、いろんな形式がある。ここで企業がいう報告書とは、5W1Hと簡単な結果をまとめた「簡易レポート」。何が起こって、一体どうなったのか、要点が簡潔に伝われば良い。一方、NPOがいう報告書とは、レイアウトはバッチリ、写真満載、分析も含めて後の資料として残すべき資料、アートの現場で通称「ドキュメント」と呼ばれているものだ。「なんで簡易報告書ぐらい、すぐに出来ないの?」vs「ドキュメントなんて、そんなに簡単に作れない!」双方どちらも間違っていない。単に、議論の前提条件が食い違っているだけだ。

【 不安 ファン We hit the step!step! 】

 「え?!ご招待の人数増えたの?どんな立場の方?」自社主催のコンサート、開場直前に招待席の席数を確認していた企業担当者の手が止まった。今日は初めて、直属上司のそのまた上、部長クラスの上司が現場に顔を見せることになっている。「いや・・・○○さん(関係者)が“もう一人”連れてこられるとのことで、詳しいことは・・・」と、NPO代表者。「それじゃあ、困るんだけどなあ・・・」と不安げな担当者。現場の高いテンションもあってか、ひとしきり地団太を踏んだあと、担当者は事務所方向にすっとんで行った。座席なんてたくさんあるのに、一人増えたことをなぜそこまで気にするのか、NPO代表者にはわからなかった。

 企業の中にも、実はイベントに類する行事は数多くある。株主総会、会社見学会など、趣旨や目的は全く違うが、企業が主催する集客イベントであることは同じだ。運営するのは基本的に社員。来客は自社にとってのVIPばかりだけに、完璧な段取りと粗相のない対応が求められる。椅子が足りない、資料が足りない、コーヒーを出すタイミングを間違えた、そんなミスなど言語道断。来客は何人で、何時に何名来るのか、それによって関連部署はどう連携するのか、、、、予想した通りにコトが進んで及第点。ひとつ歯車が狂えばすべてが狂う。臨機応変な現場対応でその場をおさめたとしても、「事前準備が足りなかった」として反省会のネタになることは必至だ。複数組織が関わるイベント進行に関して、企業人のスキルは実は結構高い。では、こうした「常識」の中にいる企業人にとって、アートの現場はどう見えるのだろうか。
 アートの現場には、きっちりとした進行や運営を、敢えて持たない現場だってたくさんある。型にはめることを必ずしも良しとぜず、そこで起こる場の予測できない変化を期待する。この主旨からすれば、前述した企業の常識など優先順位は高くなくて当然。両者の違いは良い悪いの問題ではなく、その場で目指すべき方向性のすれ違いなのだ。この現状をもって、「段取りのスキルが低い!」と断じられれば、NPOにとってはたまったものではないだろう。
 冒頭の事例も、タネを明かせばすれ違いの産物だ。企業人にとって上位者のアテンドは、それなりに気を使うもの。“ほとんど顔見知り”のアートの現場であっても、自分の上司は異邦人。そのため、初対面でも双方にとって失礼のない対応ができるように、あらかじめ担当者は「ご来社リスト」を作成し、来場者それぞれの立場や取り組み内容について部長にレクチャーしていたのだ。「不明者」の出現を気にする担当者の気苦労を、ご理解いただけるだろうか。

【 手間を惜しまず、相互理解を 】

 企業とNPO、お互いの流儀が違うことは、説明されれば理解できる。それは「多様な価値観」というほど大げさなものでななく、溝を埋める努力はいくらでも出来ると思っている。報告書の事例で言えば、簡易版を先につくって提出し、あとからそれに付加情報をくわえてドキュメント化すれば良い。現場の事例で言えば、事前に関係者とのミーティングの場をもち、双方が現場に求めるものを事細かにすり合わせしておけば事足りる話だ。「コミュニケーション不足」と結論づけるのは簡単。しかし、それでは信頼できるパートナーにはなりえない。違いがあって当然の両者、その理由も含めて双方が違いを認識し、違いを埋める双方からの努力を惜しんではいけない。そして、その役を担い、結果を互いのホームグラウンドにフィードバックする役割を果たすのが、企業・アート双方の「アートマネージャー」ではないか。
 パートナー探しは恋愛に似ている。所詮は生まれも育ちも違う他人同士、「あばたもエクボ」の時期を過ぎれば、「アナタのそーいうところが前から気に食わなかったのよ!」と喧嘩もするだろう。そのたびに、きっちりと仲直りをしておくことをお勧めしたい。それもまた、協働の醍醐味で楽しいものではないか。大きなズレがあるなら、最初からご縁はない。些細なズレの積み重ねが、信頼関係にヒビを入れる可能性をお忘れなく。

2009年7月19日日曜日

メタボリックにご用心

*本稿は、2007年 (社)企業メセナ協議会発行「メセナセミナーシリーズ No.10」への寄稿文
「メセナ未実施企業の視点から 4」の転載です。

 
【 部屋とYシャツとアート 】

 これは、体験に基づいたフィクションである。ある平日の午後、受付からの内線電話が鳴る。「あのぅ・・・アート・ナントカの“代表の方”が、ご来社ですが。。。」どうやら、名前がうまく聞き取れなかったようだ。しかも、いただいた不規則な形状の名刺には、普通よりかなり小さい文字で一見すると日本人名だと理解できないような文言がかれているらしい。電話を切り、急いで受付に向かうメセナ担当者。今日は、ダンスカンパニーの練習場所として、自社の施設を提供することになっている。
 いつもの商談室、Yシャツにネクタイ姿で来客対応中の社員たち、その中に、明らかに企業人ではない服装、スーツに対する普段着という意味ではなく、普段着の中でもどちらかといえば“個性的”と表現される服装の方々がたたずんでいた。担当者を見つけ、「いやっほぅ♪」といわんばかりにハイテンションの代表者。“周りがヒくからテンション下げて。。”ともいえず、苦笑いの担当者。怪しい団体ではありません、と後で釈明を繰り返すも、次からは、せめて受付近辺の部署には根回ししておこうと心に決めた。アートの場に企業人がいることの違和感は前稿で書いた。今回担当者は、その逆の体験をすることとなった。

【 あのコが欲しい、あのコじゃわからん 】

 資金による支援ではなく、商品などのヒト・モノを提供する「非資金メセナ」は、近年注目が高まっている。中でも前述のように施設を活用する取り組みは、「空間支援」と呼ばれている。アート側も心得たもので、昨今、非資金の支援依頼が増えたように感じる。「どんなモノでも、余っているモノでも良いので提供して欲しい」こんな依頼をいただくことも多いが、そもそも企業内に、「正式に余っているモノ」なんてありえない。たしかに、メーカーともなれば、様々なモノが存在している。長期在庫や、開発過程の試作品、傷などで「性能には問題がないが、売り物にはならないモノ」たちである。しかし、これらとはいえ、「資産」として管理されている。捨てる場合は「廃棄処理」をするのであって、単にゴミ箱行きという意味ではない。そもそもメーカーにとって商品廃棄は断腸の思い。それをやむを得ず廃棄するわけだから、それなりの手続きが必要なことを、まずご理解いただきたい。資産廃棄の「稟議」を起こし、廃棄する商品を指定された廃棄場所に捨て、その証拠写真を撮り、○月○日廃棄完了という実施報告書を作成しなければならない。捨てるからといって黙って持ち帰った場合は、業務上横領という犯罪。たとえ廃棄を行うものでも、第三者に提供する場合は寄付行為となる。

 もうひとつの誤解は、「どんなモノでも良い」というリクエスト。例えば自社の場合、数百万円もする機材もあれば、数千円のお手軽キットもある。察するに「貸してもらえるなら贅沢はいわない」という遠慮の現れなのだろうが、これは、企業にとって本末転倒な申し出だ。商品を提供することは、直接的に企業イメージを訴える絶好の機会。高評価ならプラスイメージを得るが、例えばイベント規模に対して小さすぎる機材を提供したがために用途を満足せず不満が残れば、それはマイナスイメージとなる。自社の評判を落とし、自社も、主催者も、観客も誰も満足しない支援行為など言語道断。「支援する以上はそれなりのモノを」と担当者が考えるのは、アート側への好意もあるが、自社のブランドイメージを守る意味も大きい。

【 メタボリックな経費と労力 】

 非資金メセナいえど、実際には経費が発生している。製品貸出の場合であれば、貸出用品として販売用在庫からメセナ担当部門に物品を移管する処理が必要となる。組織は縦割り、たとえ同じ企業内でも、部門をまたいだ商品のやりとりはお金を払って他部門から商品を買うのが流儀。もちろん正価ではなく原価に近い金額を経費振替する手法だが、こういった「隠れ経費」は知らぬ間に蓄積していくものだ。加えて、企業全体で考えた場合、販売品が1個減り、非販売品が1個増えるわけだから資産的には「損失」。ここでも計算上経費を消化していることになる。また、輸送費、設置に技術スタッフを要するモノなら人件費、使用後のメンテナンス費用なども必要だ。
 空間支援の場合でも、光熱費などの経費は発生する。しかし、この場合は経費よりも、社内に“部外者”が入ることに対する抵抗感のほうが大きいだろう。セキュリティ上、メーカーや研究施設などの場合、社員ですらIDカードを携帯しないと社屋内をうろつけず、情報漏えいを防ぐためカメラ付携帯電話も持ち込めないほど、厳重な管理がなされている場合もある。アート関係者とはいえ、例外とはならない。また、事情を知らない社員から「不審者」として通報されては目も当てられず、そのために「今日は、こんな方々が来ます」と事前に関係者への告知が必要となる。加えて、音楽を使用する場合の近隣への配慮や、企業秘密に関する物品の事前撤去など、詳細をあげればきりがない。保守的な企業の場合、目新しいことを禁止する理由と難癖は後からいくらでもついてくる。そうならないための気配りのススメ。いわば「隠れ労力」というべきものだ。

【 企業資源を発掘せよ 】

 ネガティブな面ばかり強調したが、これはあくまで、企業攻略のために内情をお伝えしただけで、アート団体の方々には、ぜひ積極的に企業に非資金支援を求めていただきたいと思う。
メセナ活動を行う上で、他社との差別化は昨今の大きなテーマ。どの企業も「自社らしい活動」を模索している。自社の商品や施設の提供を通じて本業に近い支援活動を行うことは、それだけで他社に真似できない独自の活動となるだけでなく、より直接的な企業イメージを関与者に訴えかけることができる。また、空間支援の場合、活動を社員が見学するなどアートを実体験できるメリットがあり、活動の社内理解を促進する効果がある。
 メーカーでなくとも、どんな企業にも有意義な資源はあるものだ。たとえ、直接的にアートとイメージが遠くとも、アイデア次第で十分活用できる。ただ企業側が、自らの資源の価値に気づいていないだけだ。アート側は企業の資源を掘り起こし、積極的に活用する術を探して欲しい。そして、手ごわい相手を説き伏せて、目をつけたモノを手にして欲しい。それは、自らの活動にとってメリットがあるだけでなく、企業に「新しいメセナ活動」の可能性を気づかせることになるのだから。

愛せよ!アートマネージャー

*本稿は、2007年 (社)企業メセナ協議会発行「メセナセミナーシリーズ No.10」への寄稿文
「メセナ未実施企業の視点から 3」の転載です。


【 試練は続くよ社内でも 】

 これは、体験に基づいたフィクションである。しかも、かなり極端な例だと思っていただきたい。主人公は、中堅企業の広報部門に所属し、企業には社会貢献活動が必須!との思いを抱く担当者。個人的には、アート好き。といっても話題の美術展をデートの口実にする程度だ。支援要請に訪れたアート団体代表者との半年に及ぶ交流を経て、その団体が主催する展覧会に対して、なんとか小額の協賛を社内で勝ち取った。【協賛の目的と効果】。硬い文言で始まる稟議書を書き、課長、部長のハンコを得て、晴れてメセナ実施企業の仲間入りだ。いわゆる広告代理店系のイベントなら、おつきあいで協賛したことはある。ただし、アート団体との直接的な関係は初めて。経費名目は、寄付ではなく広告宣伝費。このほうが、拠出のハードルが低いからだ。
 本番一ヶ月前、チラシが郵送されてきた。自社名がきちんと記載されていることを確認し、早速上司に報告する。上司は、2ヶ月前に販売促進部門から異動してきた年配社員。いきなり気勢をそがれた。
「字も細かいし、意味がよくわからない。それに、どこに広告が載ってるんだ?」
たしかに、“インスタレーション(Installation)”の意味なんて、一般的には馴染みがない。わかりやすくタイトルを目立たせよ、というチラシの定番からも遠い。
「わ、、、私は好きです、こういうの。それにスポンサーじゃなくて、メ・セ・ナ、なんです」
しどろもどろの担当者。この業界について、独学で随分勉強はしてきた。しかし、部長席の前で立ったまま、理路整然と説明しきれるほどではない。
「では、一度見にいきましょう」
この切り替えしは適切。少なくとも、現場を体験すれば上司にもわかる“はず”だったのだから。

【 I'm a Alien in Art 】

「ぜひ見に来てください。お待ちしています」
 代表者にアポをとったつもりで、会場に出向いた上司と担当者。今日は、展覧会のオープニングだ。廃校を利用した会場、なかなかに味がある佇まいだ。受付には、学生らしき方が二人。広告代理店系のイベントならば、ここで営業担当者が出迎えてくれ、上司を“しかるべき人”の元へ丁重に案内してくれる。たとえ形式的であろうとも協賛のお礼を言われ、コンサートの場合なら、スポンサー招待席に案内してくれるはずだ。
「代表の○○さん、お願いします」
不安な担当者。
「準備で“ルーム××”にいると思います」
罪のない笑顔の受付。とりあえず場所を聞き、そこまで自力で行くことにした。
 道すがら、廊下のあちこちに作品が並ぶ。見たこともない造形物、上司がどう感じているかが気になる。案の定、説明を求められたが、担当者にも説明のしようがない。そこに、黒づくめの格好で、あわただしく走り回る代表者が現れた。救いの神!とばかりに声をかける。立ち止まり、上司と丁寧な挨拶を交わす代表者、少しほっとする担当者。しかし、彼はまた一瞬でいなくなった。結局再び言葉を交わしたのは、すべてが終わって帰途につくときだけだった。アートの現場とは、かくも多忙なものなのか。
 ルーム××に着くと、そこは人でごった返していた。年代、国籍、服装も様さまざま、ただし、スーツ姿の男性は、担当者と上司しか居ないようだ。自分たち以外は、どうやらほとんど顔見知りらしい。軽い疎外感を感じつつ、会場の隅に陣取り、紙コップのビールを口にした。ほどなく代表者がマイクを片手に挨拶を始める。少しはこちらを気にかけてもらえるかと思ったが、そうでもない。上司は口にこそ出さないが、“スポンサー様”との明らかな扱いの違いに困惑しているようだった。続いて始まるコンテンポラリーダンス。時折かしげられる上司の首が目の端に痛く、気になって集中できない担当者。。。
 そこは誰にでも開かれた場で、たしかに何も拒否はされなかった。しかし、担当者と上司にとって、お世辞にも居心地がよいと言える場ではなかったはずだ。自分たちは異邦人、そんな感覚を禁じえなかったのは、企業側の勉強不足も積極性の欠如もあったことと思う。では、アート側から招き入れる努力は十分だったのだろうか。

【 “終わり”は“始まり” 】

 支援企業に媚びる必要はまったくないし、そもそもメセナとスポンサーは違う。お互いの意思をもって結びついたパートナーとして、両者は対等なのだということを企業側は自覚すべきだ。かといって企業はアート関係者ではなく、意識や経験に格差があることも事実。何しろこちらは、この分野に関してはド素人なのだから。現場が多忙なのは理解するが、今回の事例でいえば、せめてスタッフの方に会場を案内してもらい、自分たちの活動を伝える努力をすることは不可能だったのか。せっかく現場に出向いても、立ち居振る舞いの仕方も、展示の内容も、誰がキーマンなのかもわからない。しかも、決裁権があるのは、担当者より明らかに理解度が低い上司。これでは、次回の支援要請のハードルを、自ら上げているようなものだ。
 日常に戻ったオフィス。担当者には、折に触れ開かれる部内会議で、活動を報告する義務がある。再び向き合う【協賛の目的と効果】。しかし、あまりにも情報が足りない。来場者は何人か、メディアには取り上げられた、つまり社会的評価はあったのか。そんな基本的な情報すら、すぐには入ってこない。アート関係者にぜひともお願いしたいことは、企画が終了すればできるだけ早く、何かしらの報告をして欲しいということだ。凝ったものは不要、ワープロ打ちA4一枚で十分。礼状を添える心遣いがあれば、なおすばらしい。それだけでどれほど担当者は助かり、上司に対して顔が立つことか。その報告書をもとに、担当者は判断材料を示さなくてはならない。その協賛に価値はあったのか、次回の協賛を“するべきか・しないべきか”。報告は完了の挨拶ではなく、次回の支援要請への第一歩。報告こそ、熱意を持って行っていただきたいと思う。2~3ヶ月もたった頃、展覧会の図録が送られてきた。資料としての価値は大きいが、必要とされるタイミングは逸していた。

【 持続可能な関係を 】

 企業とアート、住む世界も感覚もまったく違う相手同士、双方の事情をすべて満足することは難しい。しかし、ほんの少しの気遣いだけで、随分印象は違うはずだ。パートナー探しは恋愛に似ているが、一夜の恋であってはいけない。口説く課程の情熱を忘れ、釣った魚に餌をやらないような真似は、お互いにとって不幸なことだ。“運命の出会い”なんて稀なこと。良い関係は、双方の努力によって徐々に築かれていくものだ。「あなた(御社)と一緒にいたい!」なら、すれ違いには、双方くれぐれもご用心を。

愛ある限り戦いましょう!

*本稿は、2007年 (社)企業メセナ協議会発行「メセナセミナーシリーズ No.10」への寄稿文
「メセナ未実施企業の視点から 2」の転載です。


【 覚悟のススメ 】

 「よし、上申するか。」決意したのは、中堅企業の広報部門に所属する若手社員。アート団体の支援要請をうけ、初めてアートプロジェクトへの支援を決意した。企画書は何度も読み返し、自分なりには理解したつもりだ。しかし、どうやって「支援の必要性」を上司に伝えるべきか。「この企画は芸術的クオリティが高いからオススメです」。残念ながらそんな理由で予算が使えるほど、メセナ未実施企業は甘くない。まず支援することが前提であれば、クオリティは判断基準になりえる。しかし、未実施企業にとっては、まず「メセナをするか・しないか」が最初のハードルになる。メセナは「社会にとって必要」でも、それが「今、自社がやる」べき根拠ではない。広告を出さなければ売上が落ちる。環境に配慮しなければ、社会的にも法的にも罰せられる。しかし、社会貢献やメセナをしないことで、企業が直接的に罰せられることは未だありえない。強制力がないとなかなか前に進まないのも、また大勢。上申とは、このような現状にある未実施企業の担当者が、予算を勝ち取るまでの厳しき戦いなのだ。
 メセナ実施企業であれば、一定の予算を計画的に確保している。しかし、未実施企業の場合は、計画外の予算となり、「稟議(リンギ)」とう手続きが必要になる。稟議とは、「私は、以下の理由と目的で、いくらの予算を使いたい。ご承認ください。」という公式の「お伺い書」。金額や内容に応じて承認すべき役職者が違い、役員や企業トップの稟議も当然存在する。承認否認に関わらず、こういったプロセスそのものが、「経営判断」として企業では記録に残され、監査の対象になっていることをご存知だろうか。万一、経営問題が指摘され株主代表訴訟が起こされた場合、経営者が不適切な案件に関して「適切に否認した」証拠にもなる。承認されれば「錦の御旗」、否認されれば・・・・。稟議を提出するのもそれなりに覚悟のいること。企業人にとって、決して「ダメモト」で行うべき行為ではないことを、まずご理解いただきたい。

【 リンリンリリンリンリンリ ♪ リンギ 】

 稟議書のテーマは、「協賛の目的と効果」。最初に、支援案件の5W1Hをまとめる。アート側からの企画書にはこの点が不明確なものや、逆にかなりの長文のものもあるが、それでは書類にならない。経営判断に必要な条項を、A4一~二枚程度にすっきりまとめるのが基本だ。日々膨大な書類が飛び交う企業内にあって、長文はまともに読んでもらえないと思うべきだ。
次に、担当者として案件を分析し、結果、「協賛の価値アリ」と論理的に説明する。まず、「社会性」「芸術性」について。一番重要なポイントにも関わらず、未実施企業は、判断根拠を自社内にまだ持たない場合がある。ならば、客観的事象から証明するしかない。よく用いられるのが報道記事。報道とは、市民の視点から価値判断された結果。その団体や企画についての報道があるということは、ある一定以上の社会的評価があることの裏づけとなる。加えて、他の協賛企業名。「あの大企業」の社名が並んでいるということは、たしかな目で「価値アリ」と判断された根拠となる。第二に、イベントの関与者が、自社にとってどういう位置付けの人物群なのか。自社の顧客層と合致すれば話は早いが、そうでなくてもなんとか自社や業界との関連を探す。次にチラシやポスターへの社名掲示などの企業名露出の度合い。加えて、入場券が提供してもらえるなら、福利厚生として社員に配布できる、などなど。。こうして、たった一通の企画書を、タテ・ヨコ・ナナメから眺め、あらゆる可能性を列挙した書類が完成する。結果として、「添付資料」として提出されるアート団体の企画書とは、似ても似つかぬ代物となる。
 最後に、支援金額を決める。お気遣いいただいてのことだと思うが、「ご無理のない範囲で。」と言われると困惑する。金額の正当な根拠を提示されれば納得性もあるが、出せるだけ出してくれ、では通らない。しかたなく今回は、自社の企業規模や他の資金の使い方から推測して、「まあ、こんなもんだろう」という金額を記入することにした。予算項目は、「広告宣伝費」。チラシなどへの社名露出を伴うことから、広告的な要素を含むと判断したからだ。

【 異文化コミュニケーション 】

 アート側から見れば、理解できない作業だろう。しかし、企業にとっては必要なプロセスだ。企業、とりわけメセナ未実施企業が必要とする価値と、アート側が提示する価値とは必ずしも同じではない。担当者の行為は、アート側が提示する価値を企業語に翻訳し、必要に応じて付加価値をつけて社内に再提示する作業だと言える。
 まさしくこれが、企業メセナ担当者、アートマネージャーが担うべき役割ではないか。両者は企業とアートの「接点」として、企業語・アート語二ヶ国語を操る翻訳力を駆使し、異なる価値観を結びつける努力を続けなければならない。企業とは、複数の人間の営みの集合体。加えて昨今、株主など企業を取り巻くステークホルダーの存在感が増していることもあり、企業に向けられる価値判断の目は、ますます多角化している。だからこそ、複数の関与者が理解できる言葉でアートの価値を提示する努力を続けるべきだ。
 加えて、リストラや経費節減、業績順調な企業であっても、なんらかの「痛み」を抱えている。メセナは景気に左右されず継続が重要、しかし痛みの当事者が、はたして同じ気持ちでいられるだろうか。納得は得られないまでも、当事者が理解できる価値を示す努力を怠ってはいないだろうか。

【 目指せ交際宣言 】

 出会って口説いてその気にさせて、パートナー探しは恋愛に似ているかもしれない。ただ、普通と違うのは、最初から企業という複雑な所属を背負った恋愛、いわば、家族ぐるみのお付き合いを強制されることだ。あなたの前に笑顔で現れるために、恋人が家庭内で行う努力は、かくも厳しき戦いだ。すぐに支援の可否が決められない事情もご理解いただけるだろう。それを「あの企業は理解がない」と切り捨てるのではなく、理解がない企業を変える努力を、担当者と手を取り合って続けて欲しいと思う。アートの力とは、それらを苦難を乗り越えてなお社会を変える力を持つべきものだと信じたい。であるからこそ、企業の事情を知った上で、臆せず、おごらず、自らの価値を堂々と主張すべきだ。「そんな交際、父さんは認めんからなっ!」と関係断絶を宣言されればアウト!なにせ、企業内の「父さん」に、企業人とは逆らえないものなのだから。

恋せよ!アートマネージャー

*本稿は、2007年 (社)企業メセナ協議会発行「メセナセミナーシリーズ No.10」への寄稿文
「メセナ未実施企業の視点から 1」の転載です。


【 不運なファーストコンタクト 】

 「○○株式会社 社会貢献部門御中」。宛名にこう書かれた郵便物がしばしば届く。お恥ずかしいが当社にはそのような専任部門は無く、兼任担当者(筆者)が1名のみ。かといって、全社員の所属と仕事内容を、郵便の仕分け担当者が暗記できる企業規模でもない。結果、各部署から「ウチじゃない」と拒否された郵便物が巡りめぐって私の手元に届くのは、投函されてからずいぶん経った頃になる。行き着く先がある郵便物はまだ幸せで、担当者すらいない企業では、多くは総務関連部署に集められ、他の数多の郵便物とともに“とりあえず”山積みにされる。すべてに目が通されるのは、一体いつになることか。
封を開けると、すばらしくデザインされたファイルが一通。宛名部分だけが空欄になっていて、社名が手書きで書き込んである。メセナ担当者ならばある程度内容は理解はできよう。しかし、そうでない場合は、聞きなれないカタカナ用語群に困惑し、趣旨を理解しえないまま“協賛”の文字に難色を示す。酷い場合は「何かの売り込みか」と一蹴され、再び山積みの中へ戻される。
 時を同じくして、代表電話が鳴る。「資料を郵送したのですが」と、緊張した声の送り主。どの部署に郵便が届いたか電話交換手が知るわけもなく、双方とも的を射ない会話の果てに、困惑のまま受話器を置く。。。
 お察しの通り、郵便物の中身はアート団体からの支援要請書や企画書。誠に申し訳ないことではあるが、このように郵送される企画書が、本来の役割を果たす以前の段階で挫折している現実がある。企業からの返事がない、とアート関係者からお叱りをいただくのは、しかるべき相手に届いてすらいないことも一因なのだ。不運なファーストコンタクトといわざるをえない。


【 企業いろいろ、支援もいろいろ 】

 芸術文化振興を企業の社会貢献ミッションとして明文化し、メセナ専任部署を持つ企業では、おそらくこんな心配はないだろう。このような企業が果たす役割に深い尊敬の念を抱く。社会にとって無くてはならない存在だと強く思う。かといって、すべての企業が同じことを実践できるわけではない。企業メセナにおいて、企業の特質を総論で語ることはできず、事業規模、業種、担当者の有無、経営者の理解、社風などさまざまな個別の事情が存在する。異なる事情には異なるアプローチが必要で、とりわけ、メセナ未実施企業に対しては困難を極める。郵便物の例でもわかるように、そもそも広く窓口を開いているわけではなく、情報を集める仕組みもないのだから。
 しかし今、未実施企業へのアプローチこそが必要だと痛感する。企業規模という概念を除けば、全企業中の割合では、メセナ実施企業よりも未実施企業のほうがはるかに数が多いはずだ。企業的な言い方をすれば、それはアート側にとっての未開拓市場に他ならない。メセナ実施企業の限られた支援枠を分け合うのではなく、枠そのものを開拓し市場を広げなければ、ダイナミックな活動拡大は難しいのではないか。


【 潜在的パートナーを探せ 】

 企業メセナ活動においては、それぞれが自社の理念に基づき、ほんの少しでも“自社のできること”を実施することが重要だと思っている。100社には100通りのメセナがあり、実施規模や予算額の大小を問わず、それぞれに意義のあるものだ。しかし、メセナをするか・しないかでは、両者の隔たりを感じずにはいられない。メセナ未実施企業群を、一社ずつでも実施企業に変えていく取組みは、“社会とアートをつなぐ”というアートマネジメントの趣旨に反するのだろうか。企業も社会の一部であり、また縮図でもある。メセナに取り組む企業が一社でも増え、その企業内での理解促進に努めることは、メセナ業界全体を底上げし、結果的にアートの活動領域を広げることになるはずだ。
 企業側も、本業以外で社会に対してどんな貢献をすべきかを常に模索している。特に昨今、自社が関わる必然性と、自社らしさのある活動を指向する傾向に見える。ただし、具体的にどうすれば良いのか分からないという戸惑いも実情だろう。メセナの潜在的パートナー候補ともいえるこの企業群に、アート側から歩み寄ることはできないか。企業の持つ特質や資源には、アートに活用できるものが必ずある。それは、人、モノ、資金、場所、ノウハウなどあらゆる可能性を含む。ただし、企業自身もそのことに気づいていない。「御社の資源を活用し、こんなアートを創作したい。そうすれば、社会に対してこんな可能性を提示でき、それは御社の企業理念に通じる」このような問いかけが成立したとき、企業とアートは必然性を持って結びつき、ともに社会に対してのアクションを起こすべき強力なパートナーとなりえる。


【 相手を知り、熱意をもって 】

 企業へのアプローチを行う方々に期待したいポイントは、【相手企業を良く研究し、長期展望で】。攻略企業に目星をつけたならば、少なくとも公式ホームページは熟読し、企業理念や社会との関わり方を“読み解いておく”ことがマナーだ。次に、担当者を特定する。まず電話で、タライ回しは覚悟の上で。正式な担当がいない場合は、ともかく話を聞いてくれる人間を見つける。資料はその個人宛に郵送し、できれば何か一言メッセージを添える心遣いを。その後、改めてアポをとり、訪問して面談となる。その際、芸術性だけを前面に押し出したプレゼンでは、企業側には理解されない。相手が理解できる言葉と価値観で伝える努力が必要だ。言い換えれば、まずは相手の土俵で勝負せよ、ということだ。交渉は、一度ですべて片付くと思うなかれ、訪問を重ね、公演があれば招待し、自身の活動を実体験を持って理解させる。ここまでして初めて共通の言語でのコミュニケーションが可能になる。あとは、徐々に自分の土俵に引きずり込んでいく。支援を得られても、一度に多くは望まずに。前例のない案件に多くの資源を拠出することは、企にとっては相当に高いハードルだ。なにしろ社内の関与者は、担当者1人ではないのだから。
 自分に気のない相手を、しかも住む世界も感覚もまったく違う相手を振り向かせることは、相当の苦労と策を要する。その意味で、パートナー探しは恋愛と似ているかもしれない。口説くためには、相手を知ること。そして最後にモノをいうのは、「あなた(御社)しかいない!」という熱意。企業も人の集合体なのだから。